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2006.01.03

始動。そして野武士の長、逝く

トレーニングにイベントにそろそろ始動する選手も出てきたようです。



トレーニングの話題

渡辺、今年も「神奈川県人会トレ」参加(スポニチ)
中日渡辺、公私とも元旦からフル回転(日刊)

渡辺「今年も、よろしくお願いします!
(大晦日、元日は)家族サービスをしてました。
主婦って、大変ですよね。すごい。本当にすごい」(大本営・ドラ番記者)
「今年も(神奈川県人会自主トレを)やります。人数も増えたし、しっかり動かしてきますよ。」(スポニチ)
「奥さんが大変だからすぐ帰らなきゃ。
家事を手伝わないと」(日刊)

渡辺は2日に早速名古屋でトレーニング。
奥さんが第二子を妊娠しているそうですね。


新井、新人王ボディー 筋トレ始動 Wアニキ真っ青の怪力 (大本営)
「新井兄弟」広島市内のジムで始動(日刊)

新井「これでやっと、高3のときと同じ、従来に戻ったぐらい。これからっす。
1年目が勝負だと思っています。自分は大学出だし、まして優勝争う強いチーム。今年が勝負です」(大本営)
「恵まれていると思います。生かすも殺すも自分次第。頑張ります」(日刊)

新井が広島で兄のカープ貴浩、タイガース金本とトレーニング。
まずライバルは光信や渡辺ということになりそうですが・・・



オフのイベント

中日 高橋光"生涯一バットマン"…代打稼業に専念(スポニチ)
中日高橋光「日本一です」(日刊)

高橋光「(ライバルは)ウッズです。レギュラーなら、ですが。でも、今僕がやっているところでライバルだと感じたことはない」(大本営)
「僕にはこれ(打撃)しかないんで。打つことに関しては負けたくないし、新しい人が入って来てもやばいと思ったことはない。
チームとしては僕の出番がない方がいいんだろうけど、僕が出た場面で打てば確実に勝利につながるから」(スポニチ)
「日本一です。今年はいける。僕の出番が減るかもしれませんが、チームが勝つことが大事」(日刊)

光信が名古屋でトークショウ。
代打一筋というのが高い目標なのか妥協の産物なのか
微妙な印象もあるんですが
去年後半の反省を生かしてほしいですね。



そのほかのドラゴンズの話題

元中日監督・近藤貞雄さん逝く 80歳 呼吸不全(大本営トップ)
元中日監督 近藤貞雄さん死去…80歳、呼吸不全(スポニチ)
球界のアイデアマン、近藤貞雄氏逝く(日刊)
近藤貞雄さん死去…中日、大洋、日本ハムの監督を歴任(サンスポ)
近藤貞雄氏死去 81年中日監督 翌年リーグ制覇(報知)
元中日監督 近藤貞雄氏逝く (デイリー)
<近藤貞雄さん>戦後の名将死す 関係者から惜しむ声(毎日新聞・ヤフースポーツ)

落合博満監督「投手の分業制の確率など、近代野球の基礎を作った方ではないでしょうか。(現役時代は)敵と味方に分かれて戦ったこともありますが、おもしろい野球をしてくる監督という印象が残っています。偉大な球界の大先輩の逝去を聞き、今はただご冥福を祈るばかりです。」(大本営)

宇野勝コーチ「投手陣に対しては非常に厳しい監督だったが、野手に関しては好きにやらせてもらった。直情型の監督で、よく言い合いもしたが、終わったらお互いに忘れてしまっていた。思い出がありすぎて、何と言っていいかわからない。」(大本営)

井上一樹「ドラファンなら誰でも知っている偉大な先輩なので、とても驚きました。多大な貢献をされた近藤さんのご冥福をお祈りしたいと思います」(大本営)

杉下茂「彼は、投手をつくることはできないが、運用だけは誰にも負けないと言ってた。昔からダンディーでカッコマンだったけど、やっぱり努力家ですよ。3本指でパームを必死になって投げられるようにした姿を見ているからねえ。オレはさみしいよ。また、1人仲間が欠けちゃったよ。」(大本営)

谷沢健一「リーグ優勝を決めた82年、試合前のミーティングで、ベンチにビールをケースごと運んできて『みんな飲んでやれ』って言ったのをよく覚えている。勝てば優勝という130試合目。チームの緊張をやわらげるつもりだったんだろうけど、ほんとうは近藤監督が一番緊張していたんじゃないかな。結局、自分だけが飲んでいた。厳しいこともはっきりいう監督だったけど、そんな繊細なところを持ち合わせていた。野球への情熱は最後まで変わらない方だった。」(大本営)
「若手に「谷沢をお手本にしろ」と言ってくれたことがあり、選手をやる気にさせる配慮があった。投手分業制が注目されるが、選手の個性や特徴を生かし、ベンチ入りの25人全員で勝つ野球をしていた。サービス精神があり、プロ野球は誰のためのものか、ということを常に考えていた。」(毎日新聞)

大島康徳「近藤さんには中日、日本ハムと2度もお世話になりました。2000本安打で苦しんだときも、1番を打たせてもらったり、気を使ってもらった記憶があります。ダンディーな方で、アイディアマンでした。監督室に呼ばれて、何かなと思ったら、『これを飲め』ってウイスキーのボトルを取り出して、ニヤっと笑って・・・。そういうユーモアを持ち合わせた人でした。」(大本営)

鈴木孝政「私を1軍に抜擢してくれたのは、当時、投手コーチだった近藤さんですから、私の野球人生は近藤さん抜きに語れません。優勝した74年、後楽園の巨人戦で長嶋さんに
カーブを投げ、ホームランを打たれて負けた時、宿舎に着くやいなや、耳を引っ張られ部屋に連れこまれ、『お前の持ち味はなんなんだ、速球だろう!』と説教されたのは忘れられない思い出ですね。」(大本営)

星野仙一(現タイガースSD)「アイデアを広く取り入れ、常に新しいことにチャレンジされていた。野球界を非常に面白くされた」(大本営)

牛島和彦(現横浜監督)「近藤さんとは中日入団2年目から3年間ご一緒させていただいた。とにかく思い切りのいい監督でした。2年目に一軍に定着し、抑えをやれといわれた3年目には優勝も経験させてもらった。正直、実績のない自分が何でとビックリしたが、あの時、使ってもらったから、今の自分があると思っている」(大本営)

権藤博「中日時代にコーチとして仕えたが、非常に頭のいい方で、アイディアマンだった。先発、中継ぎ、抑えというメジャー式の投手分業制を日本に取り入れた第一人者ではないか。それが82年の優勝の原動力になった。試合中は熱くなるシーンもあったが、試合後はアッケラカンとしていた。非常にダンディーな方で当時から女性が着るような毛皮のコートを着て若かった印象がある。」(大本営)

黒江透(元ドラゴンズコーチ)「リーグ優勝前年の81年から3年間、打撃走塁コーチとして、近藤監督の元で働かせてもらった『攻撃面は好きにやってくれ』と言われて、意気に感じたもんだよ。よく飲みにも行った。5曲だけといっておいて10曲も歌う。しかも、リクエストは受け付けず、自分で決めた歌だけ歌った。僕らは演歌だったけど、近藤さんは流行歌も大好きで、松田聖子も歌っていたなあ、ナイスガイで、私にとって忘れられない人」(大本営)

小松辰雄「一番の思い出は82年の優勝。優勝のかかった試合で先発させてもらい、完封で期待に応えることができた。真っ先に近藤さんの足を持って胴上げしたのを覚えています。巨人の原さんに初ホームランを打たれて『お前は大観衆の前で裸踊りをしたのと同じだ』としかられたのも覚えています。今の私があるのも近藤さんのおかげです。」(大本営)

平野謙(ファイターズコーチ)「最近、元気なお姿を見ていなかったので、心配していたのですが・・・。私の生みの親であり、育ての親といってもいい人。近藤さんなしに、私のプロ野球人生もなかったと思います。感謝しても感謝しきれません。今はただご冥福をお祈りします」(大本営)

木俣達彦「近藤さんとの思い出といえば、私の現役最後の横浜戦が強烈に残っています。勝てば優勝という大事な試合で、試合前にロッカーにビールを持ち込んで、みんなで乾杯したのはビックリした。あんな監督、今まで見たことなかった。でも、これでみんなリラックスして、この試合を大勝。優勝してしまった。アイディアマンであると同時に熱い気持ちを持った人だった。ご冥福をお祈りします」(大本営)

井上弘昭「巨人のV10を阻止した74年の優勝は、近藤さんがいたからこそできた。日本語を完全には話せない与那嶺監督に代わり、ヘッドコーチとしてチーム内ににらみを利かせていた。あの当時の選手は個性はぞろい、近藤さん以外では、誰もまとめられなかったと思う。後に81年、日本ハムにトレードされたときは監督だったが、それでもう一度優勝できたから感謝している」(大本営)

高木守道「近藤監督にはコーチとして仕えました。何人かの監督を見てきたが、一番インパクトのある人だった。投手の分業制や、攻守で選手を使い分けるなど、常に新しいことを考え、実行されてきた」(大本営)

河村保彦「私が現役のころは、投手コーチを務めておられ、大変、お世話になりました。近藤さんが野球界に残したものは数多くありますが、中でも早くから唱えられていた投手分業制は一番の功績だったと思います。大変、一刻な方で、自分の信念を貫いた指導をされていました。ご冥福をお祈りします」(大本営)

彦野利勝「入団されたときの監督が近藤さんでしたけど、当時の私は2軍選手。天と地ほど立場が違いますし、話をするなど、とんでもないことだった。確か、近藤監督で1軍の試合に出たのは、鹿児島のオープン戦の1試合だけだったはず。評論家になってからは、お話しする機会も多くなり、怖くないし、気さくな方とわかったんですけどね」(大本営)

中利夫OB会長「プロ野球の世界に、いろんなパフォーマンスを持ち込んだ人だった。近藤さんの野球は『野武士野球』と称されたが、細かいことにこだわらず、伸び伸びと選手にプレーさせておられた。まだまだ、球界のために尽力していただかねばならない人なのに、残念でなりません」(大本営)
「具合がよくないと聞いていたが、驚いた。一番思い出は昭和30年に入団した時、2軍監督になったばかりの近藤さんに、タッチアッププレイでもの凄く怒られたこと。瞬間湯沸器とも言われたけど、喜怒哀楽のある方でした。」(毎日新聞)

白井オーナー「近藤さんは機動力野球や投手の継投分業制を確立、実践し、昭和57年のリーグ優勝などドラゴンズの野球の礎を築かれました。またOB会の会長としても、いつもチームを暖かく、時に厳しく支えていただきました。今後も貴重なアドバイスをお願いしたい思っていましたが、突然の訃報はまことに残念です。ご冥福をお祈りします。」(大本営)

西川球団社長「30年以上、近藤さんとは親交がありました。入院したと聞き、お見舞いにも伺いましたが、心配していました。御冥福をお祈りします。」(毎日新聞)

82年の『野武士軍団』って自分にとっては
大げさに言えば
『生きた伝説(リビング・レジェンド)』のようなものなんですけど
その個性派を束ねて優勝した近藤監督。
あらためてご冥福をお祈りします。




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こんばんは。ねぴです。既にいろんなブログで見かけていると思いますが、新年早々、残... [続きを読む]

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